『八日目の蝉』角田光代(レビュー)
あらすじ:
野々宮希和子は同じ会社に勤める既婚男性、秋山博丈と不倫関係にあり、その男性の子どもを身ごもるが、堕胎し、それが原因で子どもを産むことができない体になる。
希和子は博丈と直接の関係が切れたあと、秋山家をストーカーするようになり、ついには博丈とその妻恵津子の間に生まれた子どもを一目見ようと、「鍵をあけっぱなしにしたまま家から誰もいなくなる朝の三十分」を狙い、秋山家に侵入する。
希和子は赤ん坊を一目見てその場を去るつもりだったが、純粋無垢な可愛らしい赤子をいざ目の前にして、自分が産むはずだった子どもの姿とかぶってしまい、そこで抗しがたい誘惑に駆られ、赤ん坊を連れ去ってしまう。
希和子は、本来自分の子どもに名づけるはずであった薫という名を赤ん坊に与える。居場所を転々としながら薫を育てる希和子の逃亡生活が第一部で描かれる。
四年ほどにわたる逃亡生活が終焉を迎えるところで第一部の幕が閉じ、第二部では連れ去られた子ども秋山恵理奈(薫)の視点から事件の回想が行われ、事実の詳細が語られていく。
テーマ:
母性と人間の狂気(ある場合には後者は前者に含まれる)
感想:
はじめは、赤ん坊を連れ去るシーンの描写や希和子が父の遺産金として4300万円を持っているなどの設定をうまく飲み込めなかったが、読んでいくうちに、そういった設定は何も特別なことではないと知らされる。
そもそもの事件が特殊であること、赤ん坊連れ去りにいたるまでの理由がのちに丁寧に書かれているためである。
一言で言えば、面白かった。
リアルな感じがする(ありそうな感じがする)のは著者の力量による。
心配になるのは連れ去られた子どものその後だが、それは第二部に描かれており、きっちりとした「結論」のようなものま提出されている。
文体や、表現の巧みさによって食指が進むというよりは、ただただストーリーに引きずられてページをくる形だった。
同じストーリーで別な作家が書いたらどうなるかといったことを考えると面白い。
内容が徹底してシリアスであるため、たとえば村上春樹の場合は、同じようなものを書こうとするとき一直線に話が進行する様子を想像するのはやはり難しく、パラレルな形式(息抜きパート)をとるものと想像した。しかし彼はそもそも題材として赤ん坊連れ去り事件を選ぶことはないような気がする。
技術的な観点からは、勢いに任せたぶつ切りの文章も修辞法として成立していることを理解した。むしろそういった言葉足らずな感じは、伏線としてだけでなく、作品の暗澹たる雰囲気作りのうえで一つの重要な役割を果たしているように思う。
人間の心の闇に触れる暗い話でありながら、心にどっと温かい血が通うような読後感があった。