「小説家を見つけたら」
ゴールデンウィーク後半。今日は5月4日(日)である。
午前中、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』を読み、午後から映画「小説家を見つけたら」(Finding Foresster)を観た。
『ティファニー』の感想は手持ちの日記帳にしたためるとして、ここでは映画「小説家を見つけたら」についてあらすじと感想を記したい。
あらすじ…
「小説家を見つけたら」(2000年)はガス・ヴァン・サント監督、ショーン・コネリーandロブ・ブラウン主演のアメリカ映画だ。
ニューヨーク・ブロンクスに住むバスケットと文学に夢中の16歳の黒人少年、ジャマール・ウォレス(ロブ・ブラウン)は、町で奇妙なうわさが飛び交う一人の老人(ショーン・コネリー)と出会う。ジャマールは、のちにその老人がかつて素晴らしい一冊の著作を認め、以来執筆活動を断ったウィリアム・フォレスターその人であることを知る。
ウィリアムに教えられ、ジャマールの文才は次第に花開いていく。一方のウィリアムもジャマールとの交流を通して自分自身を省み、過去の傷を癒していく。
感想…
上記のようにあらすじを書くと、非常にストレートな物語であるように思うかもしれない。実際に物語はストレートだ。視界を遮るものが周りに何もない広々とした一本道のごとく、物語は見通しが良い。しかしその背景のなかには人種差別問題、あるいはより広い意味で、生まれついた不平等のようなものが存在している。
黒人であることから不遇を受け、ちょっとした言葉に「(それは俺が)黒人であるからか?」と反論するジャマールの姿が私には印象的だった。そんなジャマールが、ウィリアムとのやりとりを通じ、またバスケット選手としての活躍と自らの文才に対する評価を受けることでコンプレックスを克服していく過程が、本作品ではごく自然に描かれていた。
作品のなかでウィリアムはこう言っている。
「自分のために書く文章は、人に見せるために書く文章に優(まさ)る」
私は以前、文章を書く仕事に携わることがあった。ウィリアムのこの言葉は、人に見せる(見られる)ことを意識しすぎたがためのその時の失敗を思い出させてくれるものだった。
今後、自分が自由に書く文章について、何のために書くのかと問われる機会があるとすれば、そのときには胸を張って「第一には自分のために書いている」と答えたい。