文庫『ノルウェイの森』下巻P132より
僕はある画家をインタヴューするためにニュー・メキシコ州サンタ・フェの町に来ていて、夕方近所のピツァ・ハウスに入ってビールを飲みピツァをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目につくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮やかな赤だった。そんな圧倒的な夕暮れのなかで、僕は急にハツミさんのことを思い出した。そしてそのとき、彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思い出さずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕のなかに眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆ど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。
(文庫『ノルウェイの森』下巻P132より)
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初めて会ったとき
ものすごく優秀な人なんだと直感した
初めて会ったときというのは面接のときだった。
僕は22歳で、彼女は27歳だった。
うまく思っていることを言語化して伝えられない、表現できない自分がもどかしかった
そしてそのもどかしさは、まるで洗っても洗っても落ちないある種の汚れのように、5年が経過した今なお僕という存在にこびりついている。
当時は図書館にこもって専門書に向かう時間が長く、人とコミュニケーションをとる機会がほとんどなかった。
大学という場所は、一人でいようと思えばいくらでも一人でいられる。
それが許される場所なのだ。そういう環境のなかで、当時の僕は、22歳成人男性に求められる最低限度の社会性(そんなものがあるとして)すら持っていたかどうか怪しい。
それでも僕は訥々と話し続けた。
なぜその理念に共感したのか、なぜそれをしたいのか。
面接は合格だった。
それからあっという間に3年が過ぎて僕は学校を卒業して、そのまま地元企業に就職した。
学校を卒業するまでの3年間、僕はその場所で働いた。
貴重な経験をたくさん積ませてもらった。
今の会社に就職してもうすぐ2年が経とうとしている。
「会社員」も少しは板についてきた(と自分では思っている)。
そして僕は、昨日、突然の結婚報告を受ける。頭を思いっきり殴られたような痛みが走って、僕は冒頭の引用のように、僕の心を震わせたものの正体を理解した。そのとき僕はほとんど泣き出してしまいそうだった。
一度失われてしまったものの多くは二度とかえってこない。
しかしそれと同時に、失うと同時に、僕らはその喪失から何かを得ることがある。
というより、何かを得たと思わなければ喪失に耐えられないのかもしれない。
一つの喪失から教訓のようなものを汲み取り、来る喪失に向けて準備すること
あるいはそれくらいのことしか僕らにはできないのかもしれない。
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夜は明ける。